「ならまち」という通称は正式な行政地名ではありませんが、旧市街地の南側、元興寺の旧境内を中心とした地域を「ならまち」と呼んでいます。
平城京の区画のうち東部につきでた外京にあたるこのあたりは、都が奈良にあった時代の道筋(条坊)をもとにしながら発達した長い歴史を持つ町です。
平城京遷都以来まちづくりがはじまり、南都と呼ばれた宗教都市から商業都市へ、商業都市から観光都市へと様々な時代背景の中で盛衰をくり返してきたまちでもあります。
現在も江戸時代の末期から明治時代にかけての町家が残り当時の面影を今に伝えるならまちは、訪れる人々にやすらぎとうるおいを与え、時には懐かしささえ感じさせてくれる古い街並です。
都が長岡京に遷都されたあと、平城京の多くは荒廃していきますが、外京にあった東大寺や興福寺といった有力寺院は京内に残されました。 周辺には寺の仕事に携わる人たちが住み着き、やがて郷と呼ばれる街が形成され、奈良の町は門前郷として発達していきました。
平安時代末期、平氏が勢力を強めると南都寺院と対立するようになります。治承4年(1180)、平重衡の南都焼き討ちで東大寺・興福寺とともに奈良の町も大半が壊滅に近い被害をうけました。これらの復興は公家・武家の援助によっておこなわれ、門前の各郷も活気をとりもどしました。
13世紀末奈良の町は興福寺寺門郷(南都七郷)、興福寺の一乗院・大乗院門跡郷、東大寺の転害郷などからなり、今の町に当たる小郷が多くできていたとされています。やがて郷の住民は寺から独立し商工業に従事するようになり、一乗院門跡郷に北市が、大乗院門跡郷に南市が開設され、商工業が発展していきました。さらに社寺と結びついた手工業も発達し、郷に住む人たちの政治力が向上しました。その後、寺の支配力が弱まると、町民は社寺の支配を離れ自立しようとする動きが起こり南都七郷を中心にならの町が形成されていきます。室町末期には郷数200、人口25000人に達する都市にまで成長します。
戦国の争乱がおさまり、豊臣氏が政権をとると奈良の町は郡山城に入った豊臣秀長の支配下におかれました。秀長が郡山の繁栄を考え、強大な興福寺の勢力を抑えるため、奈良町の商業に統制を加えました。そのため奈良町は一時沈滞してしまいます。
江戸時代、奈良奉行が置かれると、酒造や墨など産業の街として繁栄しましたが、江戸時代中期以降は墨を除いて産業は衰え、東大寺や春日大社の門前町としての性格が強まりました。
ちなみに17世紀末の奈良町には奉行直轄の137町と寺社下の68町の計205町が存在し、人口は約35000人を数えたようです。
いま、「ならまち」と呼ばれているのは、中世に成立した門前町を中心として、社家が並ぶ社家町・大正時代から昭和初期にかけての町家など多彩な個性が集まった地域を指しています。
奈良町には実は別名があるのです。その名も「にゃらまち」。地元の人の間では普通に使われるこの愛称。
実はならまちは猫が多く暮らす町として有名。以前に比べると地元の方の努力によって路上で見かける野良猫は減りましたが、今でも界隈には猫グッズを扱うお店やギャラリー、猫と触れ合えるカフェ、また、毎年猫関連のイベントが開催され「にゃらまち」として盛り上がっています。
ならまちは、猫好きさんにとっては、聖地「にゃらまち」なのです。
なぜ、猫が多いのか?ここでちょっと不思議なお話。東大寺の東側にある階段、ここは通称「猫段」と呼ばれています。なんでも、ここで転ぶと来世猫に生まれ変わるのだとか・・
ならまちの古い路地を歩いていると見かける、家の軒下に吊るされた赤と白の人形。これらは「身代わり猿」と呼ばれ、庚申さんのお使いの猿をかたどったお守りなのです。このあたりでは、魔除けとして、家の中に災難が入ってこないようにと、玄関先に吊るされているのです。また、背中に願い事を書くと叶うともいわれ「願い猿」とも呼ばれています。江戸時代、庶民の間で広まった、庚申信仰が、ならまちでは今なお息づいているのです。